北鎮部隊・旭川第二師団の歴史を展示する「北鎮記念館」を見学

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北海道旭川に行って参りました。旭川市内には上川地方への入植や陸軍最強との呼び名も高かった帝国陸軍第七師団を専門に展示している「北鎮記念館」という記念館があり、機会があれば一度お邪魔してみたいと以前より考えていました。旭川駅より常磐ロータリー、石狩川に架かる旭橋と戦前よりある旭川の名所を通り過ぎてクルマを停止。北海道護国神社で例大祭を催しているのが目に入り、記念館に赴く前に護国神社に足を運んでみました。

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北海道護国神社は薩摩・長州・土佐を主力とする明治政府軍と徳川旧幕府軍/東北諸藩が争った戊辰戦争より大東亜戦争に至る国事殉難者を祀っています。北海道庁長官でもあり初代第七師団長でもあった長山武四郎の跡を継いだ二代目第七師団長官・大迫尚敏が明治三十五年(1902)に招魂祭をおこなったのを初めとし、昭和十四年(1939)に内務省指定の護国神社である北海道護国神社へと改称。北海道・樺太関連の人々が祀られており、訪れた日も北海道内の市町村名が掲げられるテントを参道に沢山目にしました。明治三十七年(1904)に勃発した日露戦争で旭川第七師団が出した4千人以上の犠牲を初めとし、北海道護国神社に現在祀られているのは6万3千柱以上にもなっています。全国の護国神社と同じく菊の御紋に桜花を配した紋が使用されていました。

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自宅に飾ってあるドイツ製のユーラシア大陸の古地図を、シベリアから太平洋側を眺めて撮ってみました。日本と海を挟んだ隣人である"水と森の民"ロシア人が初めてオホーツク海に達したのは1639年。コサックの探検家イヴァン・モスクヴィチンが初めての快挙を成し遂げたのでした。同時期の日本は史上最大の一揆・島原の乱が発生して、その後に鎖国政策を開始した頃にあたります。その頃には既にロシア人達が日本の北方に定着しつつあったのでした。ロシアは豊富な毛皮資源を求めてウラル山脈を越え、オビ、エニセイ、レナ川の連水陸路を伝い極東へ進出。更には太平洋を越えてアラスカ、カリフォルニア、ハワイにも拠点を築きました。

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ロシア・サハ州の屋外にある温度計。"寒極"とも称される東シベリアでは2013年に観測史上最寒マイナス72度を記録したため気温計の最下部が72度になっておりました。マイナス20度で全てが凍る日本と、マイナス50度がアイスの食べ頃で、インスタ映え開始となるシベリアの大地。古地図中央左に映るロシアの要塞オホーツク(Orhotsuk)からロシア人達は船出してアリューシャン列島のラッコ取り付くし、カムチャツカ半島から北海道へと伸びる千島列島の南下を開始。18世紀には日露の接触がはじまり、日本は"北の黒船"来襲への対応を迫られる時代の幕開けを迎えます。

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北海道護国神社と国道40号線を挟んだ反対側、陸上自衛隊第二師団旭川駐屯地の一角に目的地・北鎮記念館はありました。歩哨の立つ所である哨所があったので、その中より日の丸の掲げられた正面玄関を撮影。護國神社内にある帝冠様式の現平成館は戦前より日露戦争での戦利品や武器類が展示された兵事記念館でしたが、大東亜戦争敗戦後に駐留軍の目に触れないようにと多くの展示物を自発的に処分。アジア初のオリンピックが東京で開催された昭和39年、自衛隊発足後に北海道各地より集まる戦遺品を展示する北鎮記念館が密やかに開館し、平成19年には現在の第七師団・旧兵器庫を模した新しい建物に生まれ変わったのでした。

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入口の扉を抜けてスグの風除室には輜重車(三八式二輪輜重車)が展示されていました。輜重(しちょう)という言葉自体をこの時初めて知りました。輜は辞書で調べてみると”幌のあるクルマ”の意味だそうで、日本軍は終戦間際までこのようなリアカーを馬で引いて兵站を担っていたと知り少し驚きました。自分の勝手な認識ではトラック/貨物自動車で運搬を大東亜戦争時代はしていたと考えていました。

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記念館一階の受付で記名(入館料無料)をすると、「解説は必要ですか? 1時間と30分の2つのガイドツアーがありますが、お時間はございますか?」と聞かれたので「1時間の方でお願いします」と即答したのでした。時間が限られてい場合は興味のあるポイント、ポイントを自分でまわる方が効率的ですが、そう出ない場合はガイドを願いした方が得られる発見が多いとよく感じます。ホール中央には我が家の奥様も推奨ゴールデンカムイの鶴見中尉を彷彿とさせる展示がありました。北海道はどこに行ってもゴールデンカムイ...。

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敗戦日を契機に全ての機密重要書類焼却命令が国内外の部隊になされていました。師団創設期から終戦までを克明に綴った師団史・第七師団史7冊は司令部付勤務だった黒川陸曹長が軍令に背き畑に隠し、昭和37年まで秘匿していた資料だそうです。黒川氏がなぜ命令に背いて持ち出したのかが気になり案内の自衛隊員に尋ねるも残念ながら答えは得られませんでした。もし発見されると同じ第七師団の仲間にも塁が及ぶ可能性もあった状態で、軍令に背いて個人(が貴重な資料だとの判断)でというのはどうも腑に落ちない気がしました。

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旭川開拓を代表する絵として有名な「国見の図」。初代北海道丁長官となる司法省大輔・岩村通俊(腕を上げている人物)と屯田本部長だった永山武四郎(左の軍服姿の男)が、大雪山麓に広がる上川平野を明治18年に国見(川上原野の検分)をしたという意味になっています。神武天皇が東征を終えた後に国中をまわりて国見山に登り"国見"をしたという伝説と重なり、昭和17年に描きあげた絵に凄い題名を付けたものだと感心しました。岩村通俊/永山武四郎両名は誤っても"国見"という言葉を自らは使わないと思われるので、後世の人が名付けたのでしょう。案内の方に此の件も尋ねてみたのですが回答は得られずでした。

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旭川というのは大雪山脈より流れる忠別川のアイヌ語「チュプ・ペッ」(チュプ=日、ペッ=川)を語源とするらしく、日を旭に置き換えて旭川と名付けた説をよく耳にします。北海道庁長官となった永山武四郎は広く国民の感心を北海道開発に向けさせ、拓殖事業の進展を図るために旭川に京都、東京に続く三つ目の京となる北京(ほっきょう)の建設を明治22年に建議。北海道に国都は置けぬと却下されるも離宮建設を明治政府が決定。この通達を受けて明治23年に旭川・永山・神居村を設置し、旭川の発展が始まったのでした。

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日本とロシア、日露間で初めて国境を確定したのは安政2年(1855)の日露和親条約で、択捉島と得撫島の間に国境線が引かれました(樺太は不確定のまま)。徳川幕府が倒れ、その後継いだ明治政府は北海道開拓を優先する為に民族混在地域である樺太を放棄し、千島列島全てを得る千島・樺太交換条約に明治8年(1875)署名。旭川開拓開始時の国境線は北は稚内と樺太の間、東は占守島とカムチャツカ半島の間にありました。道東の根室から千島列島最北の占守島までが凡そ1,100キロあり、これは鹿児島から西南諸島・与那国島に至るのと同じ位の距離でした。

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明治29年(1896)、第七師団から第十二師団(札幌、弘前、金沢、姫路、善通寺、小倉)が新たに設置されます。札幌に発足した第七師団(だいしちしだん)の師団長は永山武四郎が務め、5年後の明治34年には旭川への移転完了。現在の陸上自衛隊旭川駐屯地は第七師団敷地の敷地の一部に相当しています。師団設置時は5,000人だった旭川の人口も右肩上がりに増え続け終戦時には9万人に迫るほど。旭川は軍都として急速に発展を遂げていくのでした。

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東方を支配す街の意味を持つウラジオストク。写真中央の大きな橋は2012年ロシアAPEC開催の為に架けられたルースキー連絡橋で、厳冬期の2月に上空から撮りました。南下するロシアと北上する日本の間で火蓋が切られるのは時間の問題でした。19世紀中頃に計画されたモスクワ-ウラジオストク間9,288キロを走るシベリア鉄道は日露戦争の最中に全線開通するのですが、大人と子供ほどの差ある日露間の軍事力はもとより、極東への兵力大量輸送を可能とするシベリア鉄道開通後となっては勝てないと判断した日本は明治37(1904)年2月19日ロシアに宣戦布告し日露戦争が開始したのでした。ご存知の通り、旅順の攻略、バルティック艦隊を対馬沖にて撃破し日本側が勝利を納めました。

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旭川の第七師団は北方の護りとして設立されるも、アメリカの海兵隊(外攻専用部隊)に近い性格を有し、日露戦争の旅順要塞/203高地攻略に始まり、「奉天戦の活動は 日本歩兵の粋と知れ」と唄われる日露合計60万人の兵が激突した奉天会戦にも参加。その後も満州駐屯、シベリア出兵と“殴り込み部隊”として役割を果たしながら各地の激戦区へと投入されていきます。この斬り込み部隊としての性格は自衛隊第二師団となった後も引き継がれいるのか、カンボジア、モザンビーク、ルワンダ、ゴラン高原、イラク等と海外派遣の命を受けて派遣されています。
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北鎮記念館には203高知の戦いで被弾するも、ロシア兵の撃った弾が刀に当たり無事に帰国できたとの逸話のある欠けた刀も展示されていました。この刀は"守り刀"として出生する息子に贈られたもので、日本兵が初めて実際に"玉砕'をおこなったアッツ島にて米兵により発見され、最後の持ち主の母に戻った軍刀だと解説がありました。

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租借地の関東州を拠点にして、満州国を影響下に置く大日本帝国とモンゴルを影響下に置くロシアが、国境を接するモンゴル/満州国間の小競り合いをキッカケに日露が激突しノモンハン事件へと昭和14年(1939)に至ります。第七師団も参戦。銃剣による白兵戦と火炎瓶による切迫攻撃を主とする日本軍。ビール瓶に土とアルコール/ガソリンを詰めて、銃拭き布を導火線にした火炎瓶投げ部隊vsロシア戦車部隊のジオラマセットや当時ビール瓶の展示もされていました。

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旅順要塞のロシア側総指揮者アナトーリイ・ステッセリ将軍が乃木大将に贈呈したと伝わるヴェーラ婦人のピアノが国内に4台現存しています。旭川の他にも遠軽の北海道家庭学校、水戸の水戸市大場小学校、金沢の金沢学院大学にあり、フランスRodolphe Fils社製の象牙鍵盤、漆塗り筐体だったという伝聞に最も近いのは金沢のピアノだと何処かで読んだことがあったので、案内の自衛隊員の方に尋ねてみたところ、金沢説が最も有力との回答でした。日露戦争後に中国大陸の権益を巡り対米関係が急速に悪化していくないか、日露関係は反対に外交的に緊密となっていきます。大正6年に起きたロシア革命では日本に亡命するものも多く、洋菓子のモロゾフ、ゴンチャロフ。老舗ゲームメーカーのタイトー等は白系ロシア人の亡命者が起こした会社だったりします。

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昭和16年(1941)12月の真珠湾攻撃にて開戦に至った大東亜戦争。第七師団はミッドウェイ島上陸を目的として派遣された一木支隊(2,400名)がガダルカナル島へ送り込まれるも全滅。また米国領土アリューシャン列島西端に位置する極北の島アッツ島にも、昭和17年6月に第七師団は陸軍北海支援として厚岸からの輸送船にて二千余士が上陸して占領。米国は建国後初めて他国の侵略を許した時であり、この時から太平洋戦争の開始とする意見もあるそうです。

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補給も途絶えるなか、昭和18年には米軍の反攻も激しくなり、4月に独力で島を堅守れとの命令を受けた山崎保代大佐が極北に離島・アッツ島に着任。南方戦線を重視する大本営はアッツ島/キスカ島からの増援要請を拒否し見捨てます。米軍による陸海猛攻18日後の5月29日の決戦日、右手に軍刀、左手に日の丸を持った山崎大佐を先頭に300名の兵士達が集中砲火を受けるなか米軍陣地へと突撃し、アッツ島守備隊は壊滅したのでした。第七師団の主力部隊はその後、連合国の道東上陸に備えて司令部を帯広に移し、本土決戦に備えるも実際の交戦なく終戦迎えました。

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旭川の市街地を上空より。第七師団が駐屯したことにより開発が急速に進んだ旭川の終戦時は人口は札幌→函館→小樽に次ぐ凡そ9万人でした。昭和40年頃までには小樽/函館を追い越し、昭和58年には36万人を突破。かつて軍都旭川の中枢であり広い敷地のあった旧軍の敷地面積は5分の1に減り、豊かな自然に恵まれた道北の中心地として現在に至っています。

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自衛隊の発足により戦後再度設立された"北鎮部隊"は陸上自衛隊第二師団となり、東西冷戦下においては日本の仮想敵国ソ連への最前線地・北海道沿岸部の守備部隊でした。道北の警備以外にも現在は度重なり襲ってくる災害への派遣や国際貢献活動を任務としているとの説明がありツアー終了となりました。戦場より最愛の人のが無事帰還することを願い、黄色のリボンを自宅に飾る米国での慣習に習い旭川でも行われた「黄色いハンカチ運動」。イラクに第一次先遣隊として派遣される第二師団自衛隊員を見送る為に、常磐ロータリーのシンボルタワーに黄色いハンカチを結び、派遣隊員の無事帰還を祈った事を紹介する小さな展示が最後にありました。