慰霊の森、全日空雫石衝突事故現場に設けられた記憶の場

 f:id:tmja:20181206121056j:plain

岩手県の県庁所在地・盛岡市の隣に位置する雫石市に行って参りました。国内最大の航空事故となった御巣鷹山の事故が昭和六十年(1985)に起こってしまうまでは国内最大の航空機事故(死者162名)だった「全日空機雫石衝突事故」の犠牲者を追悼する施設「慰霊の森」が岩目山の森のなかに設けられており、一度訪れてみたいと思っていたのでした。

f:id:tmja:20210125123222j:plain

全日空機雫石衝突事故は昭和四十六年(1971)7月30日午後1時33分に羽田空港に向かって千歳飛行場を出発した全日空58便と、松島基地(赤星マーク)を出発して飛行訓練をおこなっていた自衛隊機が雫石上空8,500メートルで空中衝突をしてしまい、全日空機に乗っていた乗員・乗客併せて162人が亡くなった惨絶な事故でした。高度成長期の万博が前年にあり、航空機を使用して遠方に出掛けるのも一般的なものとなり、航空業界は連日満席が続く活況を見せていた頃でした。

f:id:tmja:20210125113444j:plain

上空1万メートルを北から南に向かい、盛岡市(写真右下)上空をこえたあたりで旅客機の右翼側から撮影した一枚です。中央右の独立峰は岩手山(2,038m)で、雫石は写真中央あたりとなります。岩手山の西側を北から自動操縦で飛行してきた全日空機と編隊飛行訓練をしていた自衛隊機が接触したのはこの空のどこかだった筈です。現在とは違い、東北方面は飛航路上でもレーダー等による監視システムはなく、全日空機/自衛隊機共に衝突防止装置もありませんでした。日本航空123便で必ず話題にのぼるコクピット・ボイスレコーダーも全日空機には装備されていなかったとされています。

f:id:tmja:20210125113436j:plain

高高度よりの急速な落下により機体は空中分解してしまい、金属より柔らかい人間がどうなったかは言葉にするまでもありません。それらが雫石の御所湖畔(上の写真中央)に凄惨な姿で空から降ったのでした。自衛隊機は湖の北側に墜落(操縦者はパラシュートで脱出)。全日空機は主に湖の南側に機体がバラバラとなり広範囲に渡り散乱。湖の南側、写真中央あたりの森が犠牲者を弔う施設が設けられた場所です。

f:id:tmja:20210124192117j:plain

墜落した全日空58便(機体番号JA8329)の遺物は下丸子の全日空施設内にあり、これまで2度見学しました。ここには全日空が起こした3つの事故である昭和四十一年の羽田沖(乗員乗客133名全員死亡)、松山沖(乗員乗客50名全員死亡)と、昭和四十六年の雫石の事故に焦点をあてた展示がありました。全て自分が産まれる前の事故で、あまり耳にした記憶のないものばかしです。内部は撮影禁止でしたので手持ちは何もありませんが、最初に訪れた時には「雫石は貰い事故である」と受け取れる表記が気になった記憶があります。

f:id:tmja:20210125113459j:plain

蛇足ですが墜落した58便(千歳→羽田)は被害者達への配慮や自らの戒めとして永久欠番になっているかと思いきや、新千歳発羽田行きのお昼の便名として現在も使用されていたりします。羽田沖事故の60便は少し前まで同路線(千歳→羽田)で運航されていましたし、松山沖の533便は羽田→高松で路線を変えて使用されています。日本航空が国内で起こした大きな死亡事故の350便(羽田沖)は123便(御巣鷹山)と併せて欠番となっているのとは対照的です。

f:id:tmja:20181206121041j:plain

f:id:tmja:20181206121045j:plain

訪れたのは紅葉が盛りの頃でした。御所湖に沿った県道に「慰霊の森入口」の案内看板を見つけ、山の方へと入って行きました。全日空機の残骸が多く空から落下した一帯で、記憶のある映像が木々に囲まれた全日空機の胴体だったので、もっと山奥にあるのだとばかし思っていましたが、雫石の市街地からも直線3-4kmほどとそう遠くはなくありません。

f:id:tmja:20181206121049j:plain

f:id:tmja:20181206121101j:plain

「全日空事故遭難者慰霊碑」と掘られた石柱。道は綺麗に整備されていました。登り口から500メートほどで慰霊碑の立つ場所まで到達できるのですが、行き帰りとも誰ともすれ違わない静かな道でした。

f:id:tmja:20181206121017j:plain

 慰霊の森碑に到達しました。「慰霊の森」の文字は山中吾郎衆議院議員のものです。山中議員は事故発生の翌日に調査団の一員として現地入りしました。悲惨な光景を実際に目の当たりにし、墜落現場に人命尊重の誓いをたてる記念公園を設ける為に奔走された方です。

f:id:tmja:20181206121027j:plain

f:id:tmja:20181206121030j:plain

墜落事故発生の翌年に建立された事故の犠牲者を弔う慰霊碑です。犠牲者の遺族会と地元自治体である雫石町、防衛庁の名前が刻まれているにも関わらず、全日空の名前がないのが気になりました。羽田沖、松山沖と全員死亡の事故を頻発したばかりの全日空は会社方針で「責任は自衛隊側にある」という態度をとり、ウチも被害者の立場を取ったからではないかと勝手に推測してしまいました。事故発生から4年後にあたる75年の航空法改正の時期でも自分が生まれる前の事なので当時の情勢は見聞きしたこともないですが...

f:id:tmja:20181206121023j:plain

f:id:tmja:20181206121020j:plain

更に敷地奥に進むとある「航空安全記念の塔」です。航空安全の思いが空に伸び上がる姿を表したのだそうです。搭乗されていた犠牲者のうち過半数が静岡県富士市住民だった人達を慰めるためか、上から見ると冠雪した富士山のようにも見えるカタチをしています。この塔は老築化により2019年12月に建て替えがなされたそうです。また公園の名前も「慰霊の森」より事故の悲しみを洗い流すとの意を込めた「森のしずく公園」へと2020年5月に変更されたそうです。

f:id:tmja:20181206121035j:plain

 慰霊の森からは富士山のように長い裾野を持つ岩手山が見えました。雫石の事故は全日空機、自衛隊機双方の前方不注意が原因のひとつとしてあげられ、75年の航空法改正で操縦者の見張りの義務が新たに加えられました。当時は混在していた民間機、自衛隊機、米軍機の空域も雫石の事件を契機として極力分離が進み、各種レーダーや航空管制にも大きな改善がなされた事より大型機の空中衝突は雫石の悲劇が国内で最後となっています。