田沢湖に残る美しい学び舎・生保内小学校潟分校を尋ねて

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秋田県中部、空の青さと同じ瑠璃色を見せる田沢湖。直径6キロ程の湖は日本一の深さ423メートルを誇り、上の写真の様に真冬でも湖面すら凍結しない湖として知られています。凍結しない理由は明確になっておらず、秋田県八郎潟の龍神・八郎太郎がその住処の凍結する厳冬季に田沢湖の龍神・辰子姫を訪れており、一緒にアツアツのキリタンポ鍋をしているからというのが最有力説です( ✧Д✧)  

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八郎太郎と辰子姫は共に元は人間でした。八郎太郎はヤマタノオロチの遠い子孫、辰子姫も同じく。マタギだった八郎太郎は狩りにて訪れた十和田湖・奥入瀬にてマタギの掟を破り龍神の姿に、辰子姫は永遠の若さという人の身体には許されない願いを求め龍神の姿にとなってしまいました。各々の棲家とする湖を行き交う鴨達の話しに相手のことを耳にし、同じ境遇を持つ辰子姫に興味を持った八郎太郎が田沢湖へ向かったのでした。

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そんな伝説が残る田沢湖の湖畔にある分校跡を訪れてみました。正式名称は田沢湖町立生保内小学校潟分校です。漢字が14個も並ぶ長い名前はおそらく書類上に見るだけで、地元の人には単に「分校」、もしくは「潟分校」と呼んでいたことでしょう。ちなみに生保内は"おぼない"と読ませる難読地名のひとつで、アイヌ語で深い川との意味だったのではないかと言われています。

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潟分校は田沢湖の南東寄りの湖畔にある2つの集落、大沢集落と田子ノ木集落の間に開校しました。その歴史を辿ると、明治政府が旗振りをした学校教育制度が秋田の山奥にも教育の灯火が広がりを見せていた明治15年(1882)、駒陽学校潟巡回授業所に始まります。巡回ですから授業は晴れればお天道様の下、雨ならば寺や神社の軒下でという具合だったと思われます。五年後の明治20年には「分教場」に改称。

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田子ノ木集落よりの田沢湖の眺めです。湖畔の集落の人々は主に漁業で生計を立てていました。巡回授業所へ顔を出す子弟の親の多くは漁師で、名物のクニマス、鰻や鮎と四季に渡り捕れる豊かな田沢湖を漁場とし、村内には豊漁を願う蛭児堂神社を現在でも見ることができます。冬には成熟した卵を抱えるクニマスを刺し網でとるために、凍てつく湖に親は舟を出し、その子供達は大雪積もる雪道を登校して寒さの中で学ぶ日々。大正12年(1923)に現在地に念願の校舎が竣工されたのでした。

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この陸の孤島の集落に、新たな人々が入植してきたのは昭和に入ってからでした。昭和六年の東北地方の大凶作による農村の疲弊と日中戦争前夜を背景として、田沢湖の南に広がる1万町歩にも及ぶ仙北平野への農業用水の安定供給と発電所建設を目的とした国策事業によるものでした。

玉川温泉を源泉とする超強酸性(PH1.1)の通称「玉川毒水」を利用する為に、川を田沢湖に導きその毒を緩和。さらに田沢湖を天然のダムとして水力発電をおこない、その水を鬱蒼たる数千町歩の仙北平野東部原野に流し開拓する壮大な計画でした。上の写真は玉川から田沢湖へと流れ出る水路の放水口です。現在の田沢湖がいまだに鮮やかな青さを放つのは、現在で流れ込む玉川に含まれるアルミニウムがその理由と言われています。

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新たに入植した人達の手により掘られた田沢湖からの水路を通って、ふたたび玉川へと水が流れ出る地点に小保内発電所が立っており、現在でも秋田県最大の最大出力31,500kWを現在でも誇っています。どこでもある事でしょうが、旧住民と新住民の争いは田沢湖湖畔でもあったはずで、ひとつの同じ屋根の分校に通う子供達にも派閥での争いがあっただろうと想像をしてしまいます。そんな毒を総て先に吐いてから、今回の目的地・潟分校の玄関をくぐりたいと思います。

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現在の校舎は大正12年(1923)のものです。昭和26年(1951)には複数の学年をひとつにした学級編成の複式授業を開始。生保内小学校の分校のひとつであるも、最も多い時の児童数は120名にもなった時もありました。将来通う子供がもしかすると出るかもしれないと地元は反対するも、生徒数ゼロにて昭和49年(1976)に惜しまれつつ閉校したのでした。

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潟分校は「地域を見守って来た木造校舎を後世に伝えたい」との地元の方々の声と、乳頭温泉・鶴の湯のサポート等もあり解体をまのがれました。2年がかりの修復作業を経て平成16年に「思い出の潟分校」として一般公開され、現在では地元の集会所とだけではなく様々なイベントに活用されており、その美しい佇まいを見ようよ多くの観光客も訪れています。

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子供の身長に合わせた低い洗面台。白い石鹸が赤い網ネットに入れられて蛇口の根元に引っ掛けられていた小学生時代の風景を思い出してしまいます。校舎の外に見える紅葉風景が実に絵の様に美しい。

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窓は枠も木材でできており、大きな窓から差し込み光は眩しいぐらいでした。冬窓は冬に積もる雪のためですが、春には桜、夏には緑、そして秋には紅葉と校舎の中からも四季の移ろいを大きな窓より眺められるのは、コンクリート校舎でしか学んだ事のない自分には羨ましい限りと感じられました。

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現在の潟分校は上から見るとH型をしており、玄関に入ってに左手側には給食調理室、男女の便所、講堂。右手には1・2年生の教室と職員室と並んでおり、二階は3・4年生と5・6年生の教室があります。校舎内に掲示されていた白黒写真を見ると、昔の平屋建てだった校舎が写っていました。田沢湖を周回する道路が完成したのは昭和44年(1969)ですので、周回道路から外れた潟分校までの道はおそらく上の様な道で、生徒達は両集落から歩いて登校したのでしょう。雪の降る冬の日には、踏み俵を使ってできた道を藁手袋にミノボッチを被っての登校だったことでしょう。

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現在の講堂(体育館)は当初昭和2年に建てたものを取り壊し、潟分校の本校あたる生保内小学校改築(昭和27年)の時に出た廃材を利用しています。トラス構造により支えられた天井は高く、南側に配された大きな窓からは緑広がる景色が眩いばかりに広がっています。冬の積雪時の通学は大変そうですが、この様な開放感たっぷりの学び舎で自分も過ごしてみたかったと思わせられる情景でした。

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秋田県民の性格を育んだ土地らしい、優しい景色付きのトイレをご覧下さい。窓の外の風景に一瞥もくれずに用を足せる人がいるのでしょうか? と問いたたくなるような鮮やかな紅葉が目に映る特等席でした (ノД`)・゜

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調理室です。この学校で唯一外が見られない窓ガラス。閉校する3年前にあたる昭和46年度には国が完全給食100%実施を掲げていた時代。冬季は交通が制限されて食糧事情が極端に悪化する僻地にあっても、現金支出を嫌う農村にあっても、この様に立派な調理室が潟分校に備えられていたの見て少し驚いてしまいました。炊き込みご飯も少人数なら炊飯釜がなくても炊飯器でできると言うものです!!

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一・二年生の教室前までやって来ました。部屋は障子で隔てる空間だというの日本家屋の特徴の延長線を見ているかのようです。廊下と教室の間には写真の様に障子の代わりの大きな窓で隔てられており、右手で筆を持つ生徒の左側から光が入るように教室の南側一面には大きな窓。窓に囲われた明るい空間が学校の教室でした。

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教壇に立って、生徒の方を眺めてみました。大人の視線で教室を見廻すと思った以上に後方席まで目に入りました。これであれば教壇から急に名前を呼ばれて、ハッとさせられる事があったのもよく分かる気がしました。

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飴色の壁沿いに並べられているのは旧式の革製ランドセル、戦前は広く使われていた5珠のソロバン等の昔に使用されていた学用品の数々。潟分校は昭和49年廃校であったと考えると、ここにあるもの全て自分の先輩...。

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職員室ではなく教員室。校内放送用の放送設備に、日本堂時計店の柱時計、ガリ版擦り機、レコード板と時代を感じさせるものが並べられています。自分の頃は試験期間中は近づいてはいけない、覗いてはいけないと言われたのを思い出しましたが、大きな窓により外から覗き放題です。ただし、時代を考えると先生達の吸うタバコの煙が充満していて、文字通りに煙幕を張った状態で見えなかったかも知れません。

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一階の探索を終えて二階へと向かいます。「センセー、授業しんどいから、階段の踊場のとこで立ってて良いですか〜?」と言いたくなる場所がまたありました。

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三・四年生と五・六年生の教室で、3/4年生は二人用の学習机、5/6年生は西側を向いた教室となっていました。校歌が掲げられていましたが、生保内小学校の分校という事で生保内小学校の校歌です。作詞は生保内生まれの藤原相ノ助で、駒岳山の峰高く、辰子の湖水清くと地元の自然を讃えた校歌。潟分校にも子供達の声で「ああ うるわしの町 うまし町」と響いていたことでしょう。

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昭和4年(1929)、まだ潟分教場と呼ばれていた頃の写真です。全校生徒で40人以上、1学年平均で7人はいそうです。

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平日に訪れたせいか施設管理人の方以外には誰もおらずで、学校としては静か過ぎる教室。周囲の山で子供達が枝を拾い集め、教室でみんなで暖をとった薪ストーブも何気なく置いてありました。自分は木造校舎に通ったことはないのですが、どうしてか懐かしさに心を打たれる素晴らしい場所でした。

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現在、日本国内の小学校は毎年1%ほどずつ減少しています。平成20年には2万2千校以上あったものの、平成30年現在では19,892校(国立70私立231公立19591)と2万校の大台を割り込み、減少の一途を辿っています。明治から昭和にかけての小学校と言えば木造校舎で、地元の木材を使い、地元の人々によって建てられたものも少なくありませんでした。潟分校もそのひとつでした。コンクリート造りの校舎が昭和30年以降は主流となるも、長く利用してきた木造校舎を改修しながら学び舎として現在も使っている小学校も僅かながらあります。

3年程前に建築基準法の改正があり、木造三階建て校舎が一定の条件を満たせば準耐火構造にて建築可能となりました。文部科学省も木造校舎を推奨しており、富山県魚津市には新しい木造三階建ての新校舎が来年にはお目見する予定です。木造校舎は過去のものを大切にしていくだけではなく、地域の象徴たる新しい学び舎を暖かみを感じさせる木造校舎で再び造れる時代を迎えています。将来には学校と言えば木造校舎となり、「南側教室北側廊下、思い出の鉄筋コンクリート校舎」と全国に現在あるコンクリート建ての学び舎が大切にされる日が来るのかもしれません。