御巣鷹の尾根、日航123便事故の犠牲者が眠る静かな霊山

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昨年の夏、家族4人で群馬県上野村を訪れました。上野村の中心部を通る国道288号線は埼玉県・秩父方面から長野県へと抜けるルートで自分達夫婦には馴染みがあり、その途中にある上野村の道の駅には度々お邪魔していたりした。今回は通称「日航ジャンボ機墜落事故」で知られる事故現場となった「御巣鷹の尾根」が目的地です。前々から一度訪れてみたいと思っていたのですが、軽いハイキングが必要となる山道と聞いており、娘が対応できる年齢になるまで待っていました。御巣鷹の尾根は子供2人は初めての訪問となりました。

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520人の犠牲者をだすことなった日航ジャンボ機事故は思い出せる自分の最も古い記憶のひとつで、テレビでその非常事態の重大さを繰り返し放送され、乗客名簿が永遠と読み上げられていたのが脳裏に浮かびます。現在から10年以上は前のことですが、妻はが友人との登山旅行で長野県に夜間向かう途中、上野村周辺で鳴り止まない消防車のサイレン音を聞いた経験があります。妻の友人達はサイレンが聞こえなかったらしく、その時の記憶が鮮明で上野村での宿泊だけはどうしてもしたくないと現在でも妻は言っていたりします。

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もうその様な思いに囚われることもなくなりましたが、自分が旅客として搭乗した旅客機が123便と同じく墜落するのではないかと不安を感じることが、息子が本当に幼い時にはよくありました。特に入道雲が発達する夏場に、羽田空港を出発して伊丹空港へ向かう便に乗った時に顕著でした。羽田空港に設けられたJALの安全研修センターもこれまで3度訪れた事があり、破損した実機の一部や本物の遺書をつぶさに見たことあったので他人事とは思えないのでした。

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上の地図は1985年8月12日に羽田空港を出発した日本航空123便が通ったであろう航路を大まかに赤線で示してみました。赤マルは通称"御巣鷹山"と呼ばれる日航機が衝突した高天原山です。この便のボイスレコーダーの音声とみられるものが事故後15年経た2000年夏に流出したらしく、自分の実機での国内計器飛行訓練で教えてくれた日本航空で元機長をされていた方が、社内教育で使用されていた音声内容と同じだと言われていた事を覚えています。

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午後6時12分に羽田空港を出発した日本航空123便。伊豆半島にさしかかる相模湾上空。何かの衝撃音と警告音から始まり、埼玉、群馬、長野三県の県境に近い山間部で最後を迎えるまでの機長、副機長、航空機関士の奮闘が生々しく伝わってくる音声記録です。現在聞いていてもその緊迫具合には身が引き締まる思いがします。

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当時は自衛隊の宿舎となった上野村立中学校や、事故当時から現役ではないかとも思われるダットサンブランドの消防車が村内に見られました。4名の生存者を長野県警と共に発見した「上野村消防車」の文字が入っています。上野村は群馬県の最南端部に位置し、その殆どが山地である人口1,000人程の自治体です。日没を迎えた午後7時前、乗客509人、運航乗務員3人、客室乗務員12人を乗せた日本航空123便の不時着による大惨事が発生。長閑な上野村は一変して救助隊の最前線となったのでした。

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土地の少ない上野村中心地に拓かれた、上野村と日本航空による財団が運営する「慰霊の園」です。旅客機の尾翼の様なカタチにも見える御影石の慰霊碑があり、単独機としては史上最大となる520名の犠牲者のうち、身元認識ができない123名の遺骨が奥の納骨堂に収められております。事故発生から現在に至るまで上野村は献身的に123便へ対応あたってきています。村民のなかには航空機事故の村と世間から看做されることに対して反対意見上げる人もいたはずですが、これまで事故に村は正面か取り組んできた事が知られています。520名の犠牲者の名をひとりひとり刻んだ慰霊碑には乗客、乗員の氏名が一緒にありました。山中の事故現場は此処から8km先の山奥になり、現地へ向かう事にしました。

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上の地図の赤マル印が事故が事故現場となった場所・御巣鷹の尾根。南の川上村から見ると、三国山から御座山へと屏風のように連なる山々の北側にあたります。現在でこそ立派な舗装路が付近まで伸びていますが、当時は林業関係者が入る程度の山深い場所でした。航空機による事故現場捜索も現在では当たり前となっているGPSではなく、航空無線基地局からの距離で飛行中の現在位置を測定していた時代でしたので数キロの誤差があった時代です。上空から火を上げる現場を見つけるのは夜間であっても容易なはずですが、事故現場を大雑把な地図の上に落とし込む(特定する)のは難しいのは想像できます。そのため、救助隊本体が現地に到達したのは翌朝となってしまいました。

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利根川水系でも有数の大きさを誇る堤高120メートルの上野ダム。このダムは上野村の中心部と御巣鷹の尾根の間にあります。山奥にダムを作る時には集落や民家移転が問題となるのが常で、「なになに集落、此処にあり」と大きな記念碑がダムの近くに残されるのを目にするのも珍しくないのですが、上野ダム建設地には河川沿いであっても住む人がいなかったので問題にならなかったほどの山奥にあたります。

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御巣鷹の尾根に慰霊登山をするために切り開かれた舗装路を通り、登山道の入口に設けられた駐車場(標高1,359m)にクルマを停めました。事故の起きてしまった日の前後数日は被害者の遺族のみの登山と発表されていたので、自分達が訪れたのはその最終日の翌日でした。登山口にテント等が設置されたままの状態なのはそう言った理由です。我さきにと進む水筒を持った息子ですが、着せた赤いTシャツは事故のことを考えると不適切でした。親である自分の未熟さを感じます...

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2019年の台風19号による被害により、登山道に至る村道、登山道だけでなく山内に立てられた墓標にも被害が及び、復旧には数年を要するとのニュースが流れていました。2020年も5月〜7月下旬までは復旧作業にて御巣鷹の尾根へと向かう村道が通行止めとなっていました。実際に歩いてみて左右に目をやれば倒木などの台風の爪痕が見えるも、登山道そのものは仮設階段が設置されており歩くには問題ないまで修理がなされていました。訪問1週間後の8月21日から半年以上に渡り第二次工事予定となっているので、夏の慰霊登山のためにだいぶ無理をして作業をしたのでしょう。

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 毎年お盆の頃にニュースで遺族登山の様子がニュースで流れるのを目にするで、御巣鷹山は遺族しか登れないのだと勝手に以前は思い込んでいました。自分のように直接関係ない者が訪れても良いのだろうかと。道程800メートル、高低差180メートルと勾配がキツイめですが、八十代のご遺族の方が登れる程迄に整備されています。子供達が一緒なので、手摺近くに設置された熊除けの鈴を見つけるたびに、これでもかという程にカーンカーンと谷に繰り返し響かせていました。

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川沿いの道を離れて、暫く歩いていると植生が変わったような印象を受ける場所にでて、2つの小屋が並ぶ地点に到達しました。小屋は事故当時に建てたものが払い下げられて休憩所となっており、上の小屋にはお手洗いと休憩所、内部には訪問者が記録を残したノートが置かれておりました。看板の裏に続くつづら折りの道を10分ほど登る途中にも墓標が沢山ありました。子供達には遺体が見つかった場所に墓標が立てられており、旅客機は3人横に並ぶ席が多いから、墓標が並んで立っていると思うと言った記憶があります。

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「招魂之碑」前に到着しました。この日は軽井沢を出発する前に買い求めた花を持参して献花しました。航空安全願い設置された「安全の鐘」を鳴らしている娘の姿↓です。

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招魂之碑から更に登っていくと、機体前部が衝突した地帯となっていきます。息子が入っているのは犠牲者の生前の写真等が多数置かれた祭壇です。家族の近況を報告するもの、小ない子供の写真などは特に見るのも辛いものです。高濱機長ら3人の墓標はもう少し登った通称X岩そばの尾根道にあり、そこまでも多くの墓標が斜面に見られました。

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振り返ると川上村側から高度を落とし、何度目かの不時着を試みようとした日本航空123便の機体が接触してできたU字溝(写真中央)がハッキリと確認できました。あの地点から機体を反転するかのようにボーイング747の大きな機体が迫ってきたのだと想像するだけでも恐ろしい限りで、その時に機内にいた人達の恐怖はいかばかりかと考えてしまいます。

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燃料を多く格納していた翼(胴体箇所)が激突したであろう一帯は、斜面の表土に染み込んだジェット燃料が燃え続けて炭化するまで周囲を長時間燃やしました。「沈黙の木」と札のかかった木が当時からのものか、その後の山火事等によるものかを自分には判断でませんが、周囲にも似たような黒化した樹木が残っておりました。墓標は写真に映さなくてようにしていたのですが、沈黙の木の後ろに映っていますね...

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御巣鷹の尾根より戻り、供養の為の風車が沢山並ぶ道を辿りスゲノ沢へと向かいます。スゲノ沢は乗員/乗客併せて149名がいた機体後部が発見された場所で、遺体発見場所をも示す墓標が最も集中している一帯でもあります。大規模な火災を間逃れたからか、唯一の生存者となる女性4人が見つけられた場所でした。後にリベット打ちの整備不良があったと事故原因のひとつと考えられる後部圧力隔壁もスゲノ沢より回収されています。

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もときた沢沿いも道を戻り駐車場へと戻りました。35年の年月が経過しているので、大規模事故の現場だという印象は薄く、山中の景色から意図的に意味を汲み取ろうとしなければ、四方を見渡しても山深い緑しか見えないハイキング路といった印象を受けました。この周囲より隔離された環境と事故に関係する人々の思いにがあったからこそ、山深い地であっても事故を風化させて埋め消すことなく残しているとも言えるのかもしれせん。

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行きに入山数を数えるカウンターを押すのを思い出し、娘がポチポチすると自分達で56人。訪れた年(2020年)は上野村で毎年で8月12日におこなわれている追悼慰霊祭もコロナ禍で大幅縮小を余儀なくされ、慰霊登山をされるご遺族の方々も例年になく少なかったそうです。