「稲むらの火」と南海トラフ大地震、過去から学ぶことばかり

f:id:tmja:20180406142609j:plain

自分の記憶が正しければ、小学生の時分に「いなむらの火」という話しを習った記憶があります。悟兵衛さんが丘の上の自宅でにいた時に、地の底からの唸りのような音と共に大きな地震が襲って来たのでした。慌てて外に出て辺りを見回すと、海岸線が徐々に沖へ沖へと引いていき普段見ることのない黒々とした剥き出しな海底が姿を顕していました。浜辺では年の秋の豊作を祝う祭で浮かれ騒ぐ村人達がおり、その異変に気が付かずにいるのが悟兵衛さんの目に映りました。

f:id:tmja:20180406142457j:plain

村の古老より、浜の海水が引く時には津波がやってくると聞いいていた悟兵衛さんは意を決します。「これから浜辺に走っても、裏山の寺に鐘を突きに行っても間に合わない」。泥に塗れ、汗をかき、春から苦労を重ねて収穫したばかりの稲を束ねた稲むらに火を放ち、浜辺にいる村人達の注意をひきつけようとしたのでした。

f:id:tmja:20180406142558j:plain

立ちのぼる炎と煙を見た村人は「大変だ、悟平さんの田圃が火事だ!みなで助けにいくぞ」と村人全員で丘の上の悟兵衛さんの元へと向い、巨大な津波の被害から逃げることができたという話しだったと記憶しています。

f:id:tmja:20171226110222j:plain

昨年末に千葉県銚子市へ家族旅行で、関東三大醤油メーカーのひとつ「ヤマサ醤油」の工場見学に訪れたのでした。そこの売店に何故か絵本が売られていたので興味を持ち、手に取ってパラパラ捲ると何と「いなむらの火」のお話し。驚くことに「稲むらの火」は実話をベースだったようで、悟兵衛さんは実はヤマサ醤油の七代目当主だったと分かりビックリしたのでした。

f:id:tmja:20180428000030p:plain

現在より遡ること160年の安政元年11月4日午前9時過ぎに駿河湾沖を震源とする最大震度7の安政東海大地震があったものの、紀州広村(現在の和歌山県広川町)を含む紀伊半島西側の被害は軽微でした。これは宝永7年(1707年)に起こった記録史上最大の国内地震・宝永大地震で波高14メートルの津波を受け、300人の死者を出す大災害時の言い伝えを守り、村人が高台ある広八幡神社に避難したからでした。

f:id:tmja:20180406142506j:plain

広八幡にて一夜を明かし、津波来襲がなかったことに安堵して村人が家々に戻った11月5日の夕暮れ時、紀伊半島から四国沖を震源とする巨大地震・安政南海地震が発生しました。房州銚子から故郷に戻っていた悟兵衛さんも被災し、「この激烈なこと、前日の比にあらず」と手記を残す大きな揺れで、街中の壁や塀が崩れ、屋根瓦が飛び落ち、土煙が天を覆う天変地異となりました。

f:id:tmja:20180406142549j:plain

濱口悟陵(悟兵衛さん)の家は話しの中では高台となっていましたが、実際には海岸線から200メートル、標高3メートルほどにあり、揺れが収まると直ぐに悟兵衛さんは被害の確認をしに村の見廻りに出ます。そこに高さ9メートルの津波が襲ってき、家々と田畑を含む広村のほぼ全てが呑み込まれてしまいました。悟兵衛さんも津波に呑まれてしまうも九死に一生を得て、ほうぼうの体で広八幡神社まで辿り着くのでした。

f:id:tmja:20180428002043p:plain

長い前振りとなってしまいましたが、その紀州広村(和歌山県広川町)を訪れて、悟兵衛さんの家から広八幡神社までと現在の広川町海岸線を歩いてみました。上の地図は現在の広川町と隣りの湯浅町です。青線で囲った場所は昭和以降に埋め立てをした場所で安政大震災の当時はまだ海だった場所です。そして、赤線で示したのが悟兵衛さん宅より広八幡神社までの道筋となります。

f:id:tmja:20180406142627j:plain

悟兵衛さん宅からすぐの所にある交差点より広八幡神社へ通じる方向の眺めです。この道は広八幡に向かって緩やかな上がり坂となっており、当時の目抜き通りで両側に家々が建ち並んでいました。湯浅/広は熊野三社へとむかう熊野古道が村内を走り、紀州を南と北に分ける難所・鹿ヶ瀬峠へ向かう前に広村に宿を求める者も多く宿屋が軒を連ねていました。この交差点の標高は2.7メートル程で、将来の南海トラフ地震(M9.1)発生時には3-5メートルの浸水予想となっている区域です。

f:id:tmja:20180406142631j:plain

紀州本線の踏切を渡り、広川小学校(標高4.5メートル)を過ぎると広八幡神社へ向かう道のある変則五叉路に出ます。ここまで来るのに悟兵衛さん宅より500メートル、徒歩8分程を要しました。電柱に巻き付けられた表示によると、広八幡までは残り650メートルともう暫く歩く必要がありそうです。

f:id:tmja:20180406142634j:plain

f:id:tmja:20180406142638j:plain

農協の施設を通り過ぎりると広八幡神社の鳥居が目に入ってきました。悟兵衛さん宅より大鳥居までの所要時間は13分ほどでした。160年前には道は舗装されておらず、街灯もなかったのでもう暫く時間を要したはず。悟兵衛さんが波に呑まれた安政南海地震で浸水したのは凡そ広八幡の入口にあたる大鳥居の辺りまでだったようです。

和歌山県が発表している南海トラフ地震予測に基づくと、津波が湯浅広港に到達するまでが地震発生後40分。大鳥居までが50分となっています。これであれば時間的に多少なりとも余裕があり、自分が歩いた実際の時間で考えても、多くの人が助かる見込みがありそうだと資料を見て安心しました。

f:id:tmja:20180428000008p:plain

岬と岬に挟まれたV字型の湾の最奥に位置する湯浅と広は、両岸が狭くなるために波が高くなり津波の被害を受けやすい地域で、繰り返し津波の被害を受けています。宝永7年の大地震の時は津波が広八幡の階段3段目まで到達したと言われています。想定9メートルの津波がきた場合には湯浅と広の大部分が呑み込まれてしまい、広八幡神社を初めとする高台に逃げなくては生き延びられない場所に集落がありました。

f:id:tmja:20180406142646j:plain

広八幡神社の村を見渡せる一角には、勝海舟撰文の濱口悟陵君碑があり、広村の人々を津波から救った悟兵衛さんの偉業が記されていました。

f:id:tmja:20180406142656j:plain

この碑のある場所から海岸線の方を眺めてみました。天皇山(90m)と端崎(102m)が遠方に見え、その手前には広村が広がっていたはずです。山のような黒い波が何度も押し寄せ、家屋を破壊し、荒波に船を失い、家畜を巻き込み村を破壊尽くす光景を悟兵衛さんと村人達は何も出来ずに呆然と眺めたはずです。手前の天皇山からは火が上がり、火の勢いが激しいこと猛蛇が怒り進むごとくで村を白煙が覆いました。

広八幡に無事辿り着くも余りの惨状に恐れ嘆き、まだ見えぬ家族を求める声に押され、悟兵衛さんは屈強な若者10人を連れ逃げ遅れた村人を救いに村へ向かったのでした。その時に田圃の稲むらに火を放ち広八幡までの道標としたのです。この明かりを頼り、高台へ避難できた村人も少なくなかったとか。

f:id:tmja:20180406142605j:plain

悟兵衛と同じく広村に生まれ、房州銚子で醤油業を営む吉田咏処は震災発生時に湯浅におり、「広村津波図」を初めとする詳細な記録を残しました。左側端に見えるが湯浅町との境となる広川、右端が江上川で津波が逆巻きながら両川を上っているのが見えます。その間の広村の集落にも大津波が襲いかかり、集落の後ろの田畑に牙を剥き襲いかかっている場面です。田畑には天をも焦がす稲むらの火が煌々と灯り、右奥にある広八幡へ必死に逃げる村人の様子が描かれています。

7年前に東日本大震災で繰り返し津波襲来の映像を見続けていたからか、この「広村津波図」から当時の有り様が目の前に浮かんできます。津波により抉り取られた集落、嘆き悲しみは山野に満ち、親は子を失い、子は親を離れ、あまりの混乱ぶりに他人の女房を誤って背負い逃げた者もいたと記録に残っています。

f:id:tmja:20180406142616j:plain

津波が去り、一夜明けた広村は散々たる有り様。家も職も失い、津波の不安の消えない人々は故郷を離れていくものもいました。しかし、悟兵衛の活躍は稲むらに火をつけ村人を避難誘導しただけではなく、広村復興と村人が安心して広村に暮らせるように行った恒久的な津波対策にありました。まずは周囲の村に頼み込み、悟兵衛(ヤマサ醤油)の保証を持って食料を調達し、私財を投じて家50軒を建て困窮者に無償で住まわせる等の献身的な活動を開始したのでした。

f:id:tmja:20180406142516j:plain

f:id:tmja:20180406142546j:plain

大震災発生の翌年2月には大堤防建設に着手。これも悟兵衛さんの私財により賄われ、村人に職を与え、津波への恐怖を和らげ村民の離散を防いだと言われています。食料に、家、船、橋と堤防等で銀貨三百七十貫を要したと記録に残っており、現在の貨幣に労働賃金ベースで換算すると20億円程になるとか。上の写真2枚は悟兵衛さん率いる人々が築いた現在も残る「広村堤防」です。高さ5メートル、根幅20メートル、総延長600メートルの堤防で3年10ヶ月を完成に要し、その堤防は戦後直ぐに発生した昭和南海地震の津波から村の中心部を守りました。

f:id:tmja:20180406142613j:plain

安政大震災から5年経った広村の様子です。海岸線に見える緑の並木の部分が広村堤防で、その背後には隙間なく家屋が建ち並んでおり震災から復興した姿を見せています。湯浅町の特産品の醤油を大阪に運ぶ船、その原料の大豆と塩の移入と合わせて港には多くの船が停泊しており、現代の広川町より発展しているようにすら見えます。

f:id:tmja:20180406142601j:plain

「稲むらの火」は小泉八雲(ラフガディオ・ハーン)が記した日本に関する説話の中に現れ、その話しに感銘を受けた地元教師・中井常蔵が小学生にも理解できるようにした作品です。国の教材公募に入選したことにより国定教科書に載り、広く知られる事となりました。悟兵衛さんの示した郷土愛と復興に注いだ情熱は現在でも人の心を打つものがあります。

f:id:tmja:20180428002043p:plain

ここから先は現在の広川町を少し見てみようと思います。最初の方に出したのと同じ地図で、広川を挟んで湯浅町が北側に、広川町がその南に広がっています。青線で囲った埋立地は湯浅町が昭和40年代に、広川町側が平成に入ってから建設しました。水際線が手前にある町が津波の被害を大きく受けてしまうので、本来であれば湯浅/広川町同時に埋め立てをしなくてはならない筈ですが、財政難に陥ってい広川町が埋め立てを開始できたのは平成2年とだいぶ遅れてからでした。

f:id:tmja:20180406142502j:plain

湯浅町/広川町の町役場の位置を確認するとオドロキの事実が...。町役場は緊急時の司令塔となるべき場所ですが、湯浅町役場が洪水の被害を受けない20メートル以上の高台にあるのに対して、広川町はなんと海岸線の埋立地に平成9年に移転したばかり。高さ7メートルの防潮堤に3方を囲われているとは言え、南海トラフ地震では埋立地全域が3-5メートル浸水する見込みが出ており、しかも埋立地南側には民家が並ぶ有り様...。

想定されている最大津波高が9メートルなので、新設広川町役場3階(高さ12m)であれば大丈夫という考えなのか、消防署等の防災施設を高台に湯浅広川消防本部として移設したので対応できるとしたのか、悟兵衛さんの意思を受け継いだはずの広川町民がよくぞ首を縦に振ったものだと考えてしまいます。町役場の埋立地への移転は既存役場の老朽化で危険な状態とでも理由を付ければ百歩譲って良しとした場合でも、この津波への最前線に新たに民家を建てる許可を出したのは全く理解できません。

f:id:tmja:20180406142531j:plain

f:id:tmja:20180406142541j:plain

この埋立地の端には災害時に埋立地を隔離する巨大な水門があります。この巨大な門を準備し、同時に門内に民家を建てる許可を出す役場はどういう頭の構造なのか知りたいところです。市長をはじめ役場の人間も津波のことは重々承知のはずなので、何かしらの経緯があったはずだとは思うも、どうも腑に落ちませんでした。

f:id:tmja:20180406142704j:plain

f:id:tmja:20180406142700j:plain

自分は関東の人間なので、南海トラフ地震と言われてもピンと来ないのが実感です。今回の広川町訪問で知った南海トラフ地震による最大想定死者数が30万人を越え、その大半が静岡県(10万人)、和歌山県(8万人)と想定されており、被害者となる数字の大きさに言葉を失いました。2011年の東日本大震災での死者数を約2万人としても、その10倍を優に超える規模の未曾有の災害が必ず来ると言うのです。

f:id:tmja:20180424223535j:plain

和歌山県の最南端に位置する串本町を例にすると、10メートルを越える津波の第一波が町に到着するまでの時間は地震発生後4分と書かれており、串本町市街地は全域が水没するとなっています。広川町では津波到着まで40分と、なんとか高台まで避難できる時間があると思いながら広八幡神社まで歩いてみました。しかしながら、串本町は最悪を想定しているとは言え、地震発生から高台避難までを数分で完了しなければ助からないという条件があまりに絶望的で絶句するしかありません。

f:id:tmja:20180428000014p:plain

昼間に街中を歩いている時に地震発生→高台へ死に物狂いでで走るのであれば、なんとか津波に巻き込まれずに生き延びられるかも知れません。ただ現実には子供、妻、親を置いて独りで逃げる事は実際には考えられず、7年前にテレビで見たように大津波が迫り来るなか、自分も助からないと分かりながらも、子供のいるであろう場所へアクセルをベタ踏みで疾走するクルマの映像が脳裏に浮かんでしまいます。

地震発生が深夜就寝中であるならば、揺れの収まるのを待ち→着替えてスグ玄関を出ると、黒々とした波が水煙をあげて家の前に迫っている情景を想像してしまいます。数分で何ができるのでしょう? そんな地震と津波が30年内に7-8割の確率で襲ってくると言うのです。公開されているハザードマップを仔細に見ると、その底知れない恐怖に思考を停止して、最悪の最悪の話しだから実際には起きえないと思いたくなりました。