蝋人形で再現された圧巻の平家物語! ! 高松平家物語歴史館

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前々から興味を持っていた高松市内にある「高松平家物語歴史館」をやっと訪れる事ができました。どうして平家物語の歴史館が高松あるのかと疑問に思っていたのですが、那須与一が弓を射た舞台が高松市内だと最近になって知ったのでした…。

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高松駅から1km程東の港湾地区に高松平家物語歴史館はあります。ここは昔の遺品を展示しただけのドコにでもある歴史館や博物館ではなく、平家の栄華と没落を描いた軍記物語を精巧な蝋人形で再現した自称「日本一の蝋人形館」なのです。高松案内ガイドブックにはだいたい記載されているので、さぞ人出があろうと思ったのですが、自分以外は誰1人も訪問客はいませんでした。

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歴史館は1階と2階に展示が別れており、1階には四国出身の偉人がお待ちかねでした。日本仏教界のスーパースター弘法大師・空海を筆頭に、幕末のヒーロー・坂本龍馬、戦後の日本発展の基礎を築いた吉田茂等の錚々たるメンバーのお出迎えです。

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展示されている等身大の蝋人形を近くで見てみると、本当の人間と見まごうばかりの再現力の高さに驚かされました。細かいシミ皺から髪の毛一本一本まで作り込まれており、1体完成までの労力を思うと溜息しか出ません。噂にスゴいと聞く、この歴史館のメインテーマ「平家物語」の歴史絵巻が展示場へと進むことにします。

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暗闇のなか「ウォー」と言う怒号と共に、いきなり現れたのが一ノ谷の合戦で有名な鵯越の逆落としの名場面。 源義経と武蔵坊弁慶を先頭に源氏の武将達が絶壁の斜面を馬で駆け下り、海岸に陣を張った平家を強襲する平家物語でも最大の見せ場です。

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この義経を初めとする蝋人形武者達の顔を見てください。実際に断崖を馬で降りたのであれば、さもあらんと思わされる表情で再現されています。

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寿永2年(1183年)、木曽義仲の軍勢を恐れた平家は安徳天皇と三種の神器と共に都を落ち、大宰府を経由して屋島まで逃げていきます。西国を拠点とする平家は力を盛り返し福原(現在の神戸)の一ノ谷に堅固な城砦を構え、来る源氏との衝突に備えていました。

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平家の大将・平知盛は生田の森(現在の生田神社近辺)にて守りを固めていました。攻める源氏は頼朝の弟・源範頼を大将とする5万の主力軍が海岸線沿いに進み敵正面へ向かい、義経の軍は山沿いの道より進んで平家軍を挟み撃ちにする作戦をとりました。

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当時の戦場を上空から鳥瞰してみました。海岸沿いの山に須磨浦公園ロープウェイがあるのですが、このロープウェイが平均斜度23.9度とかなりの急勾配なのです。上りであればまだしも、馬上で下るとなると俄には信じられない場所です。

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寿永3年2月、率いる1万騎のうちわずか70騎の精鋭を率いて、義経は一ノ谷の背後に聳える山上より奇襲をかけたのがこの場面です。平家物語でも断崖絶壁から敵軍が襲ってくるとは露にも思ってもおらず、平家軍は意表を突かれてしまっていましたが、この平家物語歴史館を訪れた自分も此の場面が最初からくるとは考えてもおらず正直驚かされました。

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ここからは時代に沿って場面が展開させるため、第1景「 平忠盛、鬼を捕らえる」に戻ります。舞台は京都の八坂神社。後白河院は伴を連れて夜道を歩いていると、灯篭の影にいる鬼と遭遇してしまいます。後白河院を護るかのように先頭に立って刀を抜こうとしているのが伊勢平氏の棟梁・平忠盛。他の従者が慄くなか、その怪しい鬼を独りで捕らえると年老いた法師だったと判明。

灯篭に油を足そうとしているところで、雨避けに被っていた笠がその明かり受けて異様な輝きを放っていたのでした。後白河院は平忠盛の勇気ある行動に寵愛していた祇園女御を褒美として下したのです。彼女は院の子供を既に宿しており、忠盛の子として産まれた平清盛は尋常で無い出世を遂げて行き、武家として初めての太政大臣にまで登り詰めるのでした。

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第2景 「平家にあらずんば人にあらず」。平家の氏神を祭る安芸の厳島神社鳥居を背景に、栄華を極めた平家の一族が平清盛の前に集まっている場面です。平清盛は武士として初の太政大臣となり、その一族も公卿として昇進していきました。清盛の妻の兄・平時忠をして「平家にあらずんば、人にあらず」と高言したというのが有名な説話です。この暴言を吐いた時忠は平家滅亡後に娘を源義経の嫁に送り婚姻関係を築いたり、なんだかんだで天寿を全うしたりと不思議な人物です。

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第3景 「仏御前、祇王を訪ねる」。かつて平清盛に寵愛を受けていた白拍子の祗王。清盛の寵愛が仏御前に移ると館を追われ、妹の祗女・母の刀自と共に出家をし都から離れて暮らしていました。清盛の新しい愛人・仏御前はも、明日はわが身と世を儚み嵯峨野の祇王寺に身を寄せたのでした。

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第4景 「清盛の孫、摂政・基房を辱める」。平清盛の孫・平資盛(13歳)は鷹狩りの帰りに、参内途中の摂政藤原基房の一行と遭遇。摂政を前に下馬の礼をとらない無礼な資盛らは、基房らの従者により力づくで馬から引き下ろされてしまいます。這々の体で六波羅んい逃げ帰った資盛の報告受けた祖父・清盛は「武家の棟梁の子弟が馬上から引き下ろされるとは何事か!」と激怒し、高倉天皇の元服の儀の事前協議に参内する摂政を騎馬300騎で強襲させた場面です。

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第5景 「俊寛のみ赦されず」。平家打倒の企てた鹿ケ谷事件の発覚によって、平判官康頼、丹波少将藤原成経、法勝寺座主・俊寛(しゅんかん)ら3人は日本の西南のはて鬼界ヶ島に流罪の刑に。やがて、平清盛の娘・徳子(建礼門院)の安産を祈願し恩赦が与えられ、康頼と成経は京に戻ることが赦されましたが、首謀者と看做されていた俊寛は赦されませんでした。藤原成経が小舟で島を離れていき、島に残される俊寛が「せめて九州まで連れて行ってくれ」と懇願する場面です。舟上の成経は島に残る俊寛とは目を合わせられずにいます。

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第6景「物怪」。桓武天皇が平安京を建ててより、天皇ですら移すことのなかった都を人臣の平清盛がへ治承4年に福原(現在の神戸市)に強引に遷都しました。新しい都では怪異が跋扈し、清盛の館でも寝室の壁に恐ろしい大顔が現れたり庭に無数の髑髏が固まった巨大髑髏が出たりと怪事件が続いていました。これまでの悪行の報いで、怪異は平家滅亡の前兆ではないかと人々は噂をし始めていました。

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第7景「平家軍、富士川で大敗」。平家追悼の令旨に決起した源頼朝の軍勢と平家軍は富士川を隔てて陣を張り対峙。源氏の一隊が河を渡ろうとした時に、水鳥の大群がいっせいに飛び立ち、その水鳥の羽音に驚き慌てて平家軍は一線も交えずに西へ撤退してしまいました。

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第8景「平重衛、大仏を焼く」。治承4年(1180年)、平家政権に反抗的な態度を取り続ける奈良の寺社に平清盛の命令で焼き討ちに。平重衡の命令によって点けられた火は予想以上に広がってしまい、奈良の街全てが灰燼に化してしまいました。平家物語によると、「煙は中天に満ち満ちて焔は虚空に隙もなく目の当たり見奉る者は更に眼を当てず遥かに伝へ聞く人は肝魂を失へり 法相三輪の法門聖教すべて一巻も残らず 我が朝は云ふに及ばず天竺震旦にもこれほどの法滅あるべしとも覚えず」とその惨状を伝えています。

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第9景「清盛、高熱を出して死去」。治承5年(1181年)、臨終の枕元には平家最後の棟梁となる平宗盛、その隣りには平清盛の妻・時子の2人。「頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残し平清盛は死去。各地で反平氏の狼煙が挙がるなか、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継ぎます。

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第11景「平敦盛と熊谷直実 」。平清盛の死去の後に冒頭で見た第10景「一の谷の合戦」が時系列的に挟まります。一ノ谷の合戦で平家の敗北が決まり、沖の舟へと逃げようとする笛の名手・平敦盛。「あれはいかに、よき大将軍とこそみまゐらせてさふらへ。まさなうも敵にうしろを見せたまふものかな」と挑発を熊谷直実より受け、武士としての心意気で浜辺へ向かう敦盛。

平敦盛は熊谷直実によって討たれます。当時40歳ほどの直実は息子ほどの年齢の敦盛の姿に助けたいと思うも、味方の軍勢が迫っており逃がすこともできず。織田信長が好んだと言われる幸若舞・敦盛の一節「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」は出家した熊谷直実が世を儚んで詠ったものと言われています。

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海戦を想定していた平家に対して、義経軍は僅か150騎だけで一ノ谷での合戦と同じく陸地の背後から強襲。突然の敵襲に慌てた平氏軍は陸上の拠点を放棄し海上に逃げ出します。義経軍が少数だと分かると反撃を開始し、平家軍は志度湾に上陸を試みるも、源氏軍の激しい抵抗にあい最後の合戦がおこなわれる壇ノ浦近くの彦島へ撤退を余儀なくされます。

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左手に屋島、右手の庵治半島に挟まれた壇ノ浦。かつて屋島は壇ノ浦の入り江だったが、相引川の土砂により陸化し干拓されて現在は住宅地となっています。関門海峡の壇ノ浦があまりに有名で、讃岐にも同じ名前の壇ノ浦があるとは考えたこともありませんでした。ここが次の有名な話しの場面の舞台となります。

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第12景「那須与一、扇の的を射る」。寿永4年(1185年)2月、九州でなく香川県の壇ノ浦が舞台です。日が暮れ源平両軍が兵を引こうとする時に沖の平家軍より小舟が1艘漕ぎ出てきました。扇を竿の先に挟んで船べりに立て、傍らの女が陸の源氏に向かって手招きをしています。

これを見た義経は、弓の名手・那須与一宗高に扇を射抜くよう命じます。馬を海に乗り入れるも扇までは70mもあり、「南無八幡大菩薩、この鏑矢を外したまうな」と念じた与一の矢は見事に扇に命中させた名場面です。この様子を固唾を飲んで見守っていた源平両軍は歓声を上げて与一を褒め讃えたのでした。

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西からは九州を抑えた源範頼が迫り、東からは中国/四国を抑えた源義経が迫っている中、屋島の合戦で敗北した平家軍は逃げ場を失い彦島に籠っていました。寿永4年3月24日、攻め寄せる源氏水軍に対して、知盛率いる平家水軍も彦島より出陣し、源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いが始まります。合戦開始時は水上の戦いを得意とする平家軍が優勢でしたが、非戦闘員(船の漕ぎ手/水手)は攻撃しないという当時の暗黙の合戦ルールを無視した義経軍が次第に優位に立っていきます。

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第13景「安徳天皇、入水」。戦況の悪化はま逃れず、安徳天皇や建礼門院、二位尼の乗る船にて平知盛は「これから珍しい東男を御目にかけましょう」と源氏が迫っていることを伝えます。 覚悟を決めた清盛の妻・二位尼は幼き帝に伊勢神宮に向かって手を合わさせ、西方浄土に向かい念仏を唱えさせると「波の下にも都がございますよ」とお慰めし海に身を投げ波の下へと沈んでいきました。安徳天皇の母・建礼門院もその後を追います。

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第14景「平教経、壮絶な最期」。平家随一の猛将・平教経は源氏の大将・源義経を追うも、義経の八艘飛びにて取り逃してしまいます。ここまでと意を決した教経は土佐の三十力・安芸太郎と次郎の兄弟を両脇に抱え、「さらばおのれら、死出の山の供せよ」と叫び入水。この壇ノ浦の場面の何処かに潜む平家棟梁・平知盛は平家の滅亡を最後まで見届けてから「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と入水しました。

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第15景「平家滅亡」。平家滅亡の地となった壇ノ浦は死屍累々たる有様。月夜の静けさのなか、平家の赤い旗が水面に散り山紅葉の錦のようだと平家物語ではその儚さが詠われている場面です。

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第16景「祇園精舎の鐘の声」。壇ノ浦で入水した建礼門院(安徳天皇の母)は三種の神器を探す源氏に引き揚げられ、生き長らえてしまいます。大原の寂光院にて、亡き子と平家一門の菩提を弔う日々を送る建礼門院の後ろ姿でこの話しは幕を閉じるのでした。

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第17景「琵琶法師」。物悲しい琵琶の音色。平家物語は琵琶法師の語りを媒体とする特殊文学として伝承されてきました。室町初期の京都は数百人の琵琶法師がおり、多くの民衆に諸行無常の物語を語り聞かせたと言います。

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平家物語歴史館内では誰一人として遭う事がなく、精巧な蝋人形で再現された平家物語の世界を充分に堪能できました。途中ですれ違うことがなかったので気が付かなかったのですが、最後の場面・琵琶法師の前に先客が二人。二人共全く身じろきせず、まるで蝋人形かのようでした。