筑前町立太刀洗平和記念館+レトロステーションへ2度目の訪問

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九州北部に1泊2日の出張にやって来ました。出張時に寄り道観光をするのが常となり、各地の人、産物、歴史、文化を見てまわるにドンドン嵌ってきています。最近では仕事が主なのか、寄り道が主なのか分からなくなっているぐらいです。今回は佐賀空港から福岡へと向かう途中、福岡市から南東に25キロほどにある大刀洗町に立ち寄ってみました。

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大刀洗町の「大刀洗」は、南北朝時代に南朝側に付いた武将・菊池武光が北朝と南朝の両軍合わせて10万を数える筑後川合戦で、血糊の付いた刀を小川で洗い流したのが由来とナカナカ物騒な地名です。

楠木正成と並び南朝方で奮闘した菊池武光は報国の士として祀られ、この勇ましい像は盧溝橋事件の起きた昭和12年(1937)に国威発揚のため建てられました。台座にある解説には「朝からの戦いで血塗れの刀を山隈原を流れる小川で洗うと、刀は鋸のようにはがこぼれており、川は真っ赤に染まった」とありました。

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ここ大刀洗には大正8年(1919年)に陸軍によって飛行場が拓れました。九州は日本から朝鮮半島、中国大陸、沖縄へと向かうルート上にあたる要所にあたり、ここ大刀洗飛行場は航空教育隊、技能者養成所、航空機工場を併設する西日本最大の航空拠点として軍都と称されるに至ります。

当時は軍だけでなく、民間事業の日本航空輸送による東京ー大阪ー大刀洗(福岡)の定期便も6人乗りのフォッカー・スーパー・ユニバーサル(上記写真)で昭和4年に運行開始されたとの記録が残っています。

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太平洋戦争中の米軍は西日本の航空拠点たる大刀洗に大空襲をおこない街は壊滅。現在の大刀洗公園にある菊池武光公の銅像、その馬の胴の部分と台座には太平洋戦争の最終年に米軍艦載機の空襲で受けた銃跡が無数に残っているのが見えます。この菊池武光公像は離着陸帯と飛行機工場の間に位置していたことにより、グラマン等の機銃掃射を執拗に受けたらしく像の四方に銃跡が見られました。

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目的地の大刀洗平和記念館を訪れる前に、大刀洗公園の2キロ北にある高上の掩体壕と大刀洗北飛行場跡地を訪れてみました。この掩体壕は1キロ程離れた大刀洗北飛行場(現・自衛隊大刀洗通信所そば)の航空機を敵軍より隠す為に作られたシェルターです。

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自分が見学している時に団体の方々も訪問されていました。聞こえて来るガイドさんの話しによると、戦中はこの様にコンクリートが露出した状態でなく土を覆い被せて、敵機から発見さてないように工夫していたそうです。また、この掩体壕には大きな爆撃機が秘匿されたとのこと。

前回訪問時には掩体壕の所在地が分からず、ここは見られなかったので、自分の目で見られたことに満足して太刀洗駅へと向かいました。

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甘木鉄道・太刀洗駅の隣りの旧駅舎を利用して「太刀洗平和記念館」が開設したのは昭和62年(1987年)でした。地元で建設業を営んでいた渕上宗重さんが旅行で訪れた知覧にて、後の知覧特攻平和会館の館長となる元特攻隊所属・板津忠正さんに偶然出会い、感銘を受けて大刀洗での活動を開始。板津忠正さんの講演を直に聞いた事があると伝えたところ、渕上宗重さん御本人より記念館開館までの経緯を以前にお教え頂いたことがあります。

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前回訪問時にはなかった立派な門が大刀洗平和記念館の入口に。重厚な石柱には陸軍第五航空教育隊と書かれており、その向こうには掩体壕/航空機ハンガーを模したカマボコ型の大刀洗平和記念館が見えています。

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遺品、遺書、遺影等が数多く展示されているので、大刀洗平和記念館は館内原則撮影禁止。唯一の例外が寄贈者の福岡航空協会の申し出のあった零式艦上戦闘機32型、通常ゼロ戦となっています。このゼロ戦は日本本土から5,000キロも離れたマーシャル諸島のタロア島にて、スティーブ・アイケン氏(米)により戦後発見/保存された機体です。

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ゼロ戦のエンジンカウル部分です。天井には日本全土を灰塵と化した米国の戦略爆撃機B29の大きさを表す金網。その大きさは全長30.2メートル、全幅43.1メートルもあり、最大爆弾搭載量9トンを誇ります。

昭和20年4月18日に大刀洗上空に10機編隊のB29が現れました。迎撃の任に就いた回天航空隊隊長・山本三男三郎大尉の操縦する二式複座戦闘機・屠龍による体当たり攻撃により編隊最後部の一機が鳥栖ジャンクション付近に墜落し、屠龍/B29の乗務員は全て死亡。その日米双方の搭乗員のご遺影も館内に飾られています。

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今回は平和記念館周辺の遺構巡りに時間をかけてしまい、館内は殆ど駆け足となってしまいました。自分の家系では戦地に出た者はおらず、空襲は遠くに見えるのみで被害は受けず、軍馬をたくさん出絹した碑が田舎に残るぐらいでした。

戦争のことは親族より肉声で聞くこともなかったので、何処か遠方の地で起きたことのように感じられるのが正直な実感です。それでも、展示されている特攻隊員の手紙には琴線に触れるものがあり、父親となった現在では自分の子供がもし…と考えてしまいました。自分の子供達が近代史を教わる時に必ず聞いてくるであろう戦争への質問に、どう答えたら良いものかとも考えてしまいました。