小豆島は石の島、大阪城の巨石の故郷「天狗岩丁場」へ

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大阪城を訪れて、その壮大な石垣や巨石に圧倒されてしまいました。特に身の丈を遥かに超える巨大な花崗岩が何処から来たのかに興味が湧き、その産地のひとつに実際に訪れてみることにしたのです。大阪城を訪れた話しはコチラ

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上の絵は尾張名所図のデジタル着色版です。慶長15年(1610年)に名古屋城の石垣を造る為に、修羅と呼ばれる引き台に巨石を載せて運んでいる場面で、巨大な石の上に乗り指揮を執るは虎退治でも有名な加藤清正公。描かれている太さの綱では切れそうな感じもしますが、台車脇にこれまた3メートルはありそうな車輪が付いているので大丈夫なのでしょう。

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大阪城にある最大の巨石・蛸石は130トンと見込まれています。現代であれば鉱山等で使用されるコマツの超大型ダンプカー960E(車重576トン、最大積載量327トン)で軽々と運べそうですが、当時はこれを人力で運んだというのですからオドロキです。

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大阪城に残る巨石ベスト10は全て瀬戸内海に浮かぶ島々より切り出されてきました。その半分は小豆島の石だと判明しているので、ここを巨石達の故郷と決めて、大阪から100キロ離れた小豆島の石切場へと向かいました。

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大阪城の目の前にある大阪府警察やNHK大阪の屋上ヘリポートからであれば小豆島までひとっ飛び30分で着くところですが、庶民の自分の遊びにそんな予算がある訳もなく、高松まで来た後にフェリーで小豆島へと向かいます。

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西の方角を頭に、牛のカタチをしていると言われる小豆島。高松市の屋島からだと10kmもない瀬戸内海に浮かぶ島です。当時最大の採掘場と言われる石切場「天狗岩採掘場」は島の東側にあり、ここを目指すことにしました。

小豆島の地質は主に花崗岩で形成されています。いまから8,000万年以上前に地中深くでマグマが冷えて固結した岩石で、地殻変動により地表に現れたものです。現在でも島東北部を中心にそれらの石材採掘がなされ、主に護岸および埋め立て向けに使用されています。

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小さな駐車場脇に立派な石碑がありました。石切場としては初の国による史跡認定を昭和47年(1972年)受け、豊臣時代の大阪城築城から始まり、多くの石が切り出されてきた経緯が書かれています。    

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晴天の日であれば、この駐車場から見上げると山肌を削られた山が西に見えるはずですが、訪問した日は雲が低くまで覆っていました。雨が振り始めそうだったのでさっさと登り始めるかとすると、遊歩道を降りて来るご夫婦に会いました。話しを聞くと「竹藪でガサゴソと音がしたので、目を向けると猪が見えた」のだとか。

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出典: 日本自然保護協会

ここ10年程で四国本土から泳いで小豆島に渡る猪が多数目撃されており、明治に小豆島から絶滅した猪が数を増やしているニュースを思い出しました。竹藪に見えたのが猪でなく、熊であれば何も考えずに引き返すところですが、瀬戸内海の島嶼部には熊は1頭も居らず、四国全体でも剣山近辺に数十頭と言われています。

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猪であれば大丈夫だと考え、平成24年に整備された遊歩道を進み始めるとイキナリ大きな石に遭遇。ここ天狗岩丁場は山奥で切り出した石を加工する丁場(作業場)でした。石を切る手順は大まかに以下の通りで、写真の石は矢穴を掘って上手く割れなかったのか放置されたかのようです。

  1. 石が割れる方向を見定め
  2. 矢穴と呼ばれるミシン目をノミで掘り
  3. その矢穴に楔を打込み石を割る

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先程のご夫婦が猪を目撃したと思われる竹藪。どの程度の距離で見えたのかは聞き忘れてしまったので分からないので、イキナリ至近距離で出会わないようにと、念の為にとスマホで音楽を流しながら遊歩道を進んで行きました。

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石を積み上げたものに立札が傍に置かれているのが目に入ってきました。猪鹿垣と呼ばれる害獣から田畑を守るために築かれたものらしく、土積み/石積み合わせて小豆島内で総延長120kmにもなるそうです。よく見ると、この猪鹿垣の1番下には切り出された大きな石が使われています。

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その猪鹿垣からスグのところ、木立の向こうに大天狗岩と呼ばれる高さ17メートル、幅7.8メートル、奥行12.3メートル、総重量1,700トンのド迫力の巨石 が鎮座していました。大阪城最大の巨石「蛸石」が11メートルx5.5メートルなので、もとは大天狗岩ぐらいの巨石を種石として掘り出されたのかと考えを巡らせてしまいました。この丁場まで持ってきた大岩を大阪に送られなかった理由は何故だったのかが気になります。

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ここの丁場は福岡藩黒田家の初代当主・黒田長政と嫡男・忠之が大阪城築城の際に採石をした場所で、黒田家の代表的な刻印である〇に□が刻まれた残石を見ることできます。大阪城の大手門から千貫櫓を映した1番上の写真で、この櫓の北側の石垣を担当したのも黒田家です。大阪城の石垣にも黒田家の刻印が残っており、小豆島の石が大阪城の石垣に使用された証拠のひとつとなっています。

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黒田長政は豊臣秀吉の軍師・黒田官兵衛の嫡男として生まれ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、九州征伐、文禄・慶長の役で活躍した武将。天下分け目の関ヶ原の合戦では小早川秀秋と吉川広家を徳川側に付けて、東軍を勝利に導いた最大の功労者でもあります。

黒田家は関ヶ原の合戦の功労にて得た筑前国52万3千石に自身の福岡城、徳川幕府の命による江戸城、名古屋城と数々の築城に携わり、築城の名手と呼ばれております。小豆島は良質な石を産出し大阪にも近い天領だったので、黒田家はココに採石場を開いたのでした。

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遊歩道の左右は何処を見ても巨石が随所に見られます。現在では木々が茂って見通しが良くないですが、往時はここの丁場からも瀬戸内海が見渡すことができたはずです。横たわる巨石はノミで矢穴を穿ち、楔入れられて切石となるも運ばれずに残念石とも呼ばれているそうです。この天狗岩丁場の南の入口には黒田藩の命にて、明治維新の頃まで丁場に残る666個の石の番をしていた七兵衛屋敷跡もあります。

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昔の石切場(天狗岩ではない)の風景の再現モデルです。山から石を切り出し、山出しをした石を加工をして、人力で浜辺の集積地まで当時はこの様な感じだったのでしょう。 採石場の南に番所があったという事は、ここの作業場で働いていた人達は500メートル程南の岩谷の集落から通勤していたのでしょうか?

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遊歩道に沿って歩いていると、小天狗岩と呼ばれている石の前に出ました。左側の石の上部にギザギザが残ってみえるので割られた石の一部なのでしょうが、一部であってもまだ巨石です。この大石と大石の間をくぐって先へ進みむと全長500メートル程の遊歩道一周となり、もとの駐車場に戻れました。

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小豆島から大阪までの石材運搬は文献資料が残っておらず、その実態は今も謎のまま。 大方の意見では海岸まで降ろした巨石を浜辺に置き、その石の囲むように大きな木枠を干潮時に組み上げます。それを複数の船に括りつけると、次の満潮時に石が海底を離れ、石と共に船出したそうです。通称アルキメンデスの原理(浮力)を応用した方法で、海を渡ったと考えられているのだとか。

大阪城の石垣に組み込まれている姿だけでも威圧するかのように感じましたが、石切丁場に残る更に巨大な天狗岩と矢穴の残る多くの残念石、海岸までの距離の近さを見て巨石に関わった人達の姿が少し目に浮かぶ気がしました。目の前に広がる瀬戸内海で100トンもあろう巨石が海に浮き船出する場面は、その巨石を切り出した石工達にとっても驚きだったはずです。見られるものなら、巨石が浮く姿を自分も見てみたいと感じました。