来年3月で閉館してしまう旧八丈支庁庁舎利用の八丈島歴史民俗資料館

f:id:tmja:20171109110007j:plain

八丈島空港でレンタカーを借り、八丈富士に目指そうとすると仕事の電話...。八丈ススキが多数群生している路肩に取り敢えずクルマを寄せました。電話中にポツリ、ポツリと小雨が降り始めてしまい、西の空には黒い雲が広がっていました。

f:id:tmja:20171109110010j:plain

雲行きの様子を見るためにと八丈島の歴史資料館にやって来ました。石垣の上に亜熱帯植物が並んでおり、とても品川ナンバーが走っている場所には見えません。

f:id:tmja:20171109105910j:plain

八丈島歴史民俗資料館に到着。この資料館は1939年に建てられた旧八丈支庁庁舎です。木造平屋建ての鉄板葺き、左右対称のH型の建物で中央棟は片廊下、左右棟は中廊下となっています。上の写真で見えている入口はその右棟にあたる場所でした。

入場料が大人360円、子供170円と書かれた白い看板があり、料金下には「おじゃりやれ」と八丈方言でいらっしゃいの意の言葉が書かれています。八丈方言は八丈島と青ヶ島だけで現在も使われており、奈良・平安時代の東国言葉を残す日本で最も古いものが残る方言だったりします。「〜してたもーれ」は〜してください意と味わい深いです。

f:id:tmja:20171109105914j:plain

木造のかつての市庁舎の趣のある造り。耐震性に問題があり、2018年3月で閉館してしまいます。このニュースを聞いていたので、八丈富士登山と此々の2箇所を今回の八丈島弾丸旅行での訪問先としたのでした。八丈支庁展示ホールが移転先の第1候補らしいのですが、職員の方の話ぶりから推測するにまだ未確定なのかも知れません。

f:id:tmja:20171109105947j:plain

八丈島訪問は10数回目ですが、この資料館は初めての訪問になります。入口を潜って左手にあるA展示室。八丈島の自然と文化財が展示されています。手前のジオラマが八丈島と八丈小島で、年配の係員の方より八丈島は、八丈富士(西山)と三原山(東山)の火山がくっついて出来たひょうたん形の島だと教えてくれました。

右側の窟は何かと尋ねると、八丈島には天然/人工の洞窟が多く、それを代表して展示されているとのこと。なかを覗いて見るとコウモリがいました。

f:id:tmja:20171109105918j:plain

八丈島への最後の流人となった近藤富蔵の「八丈実記」も見られます。近藤富蔵の父・重蔵は数度に渡り蝦夷地・千島列島、択捉島を探検し、択捉島に「大日本恵登呂府」の標柱を最上徳内と共に建てた北方探検の雄。

その長男が富蔵となり、屋敷の敷地争いで7人の町人に刀を抜き、遠流の刑を受け八丈島へと流されました。50年以上に及ぶ流人生活中に書き上げたのが八丈実記69巻で、八丈島及び周辺諸島のありとあらゆる事が描かれた克明な記録となっています(東京都重要文化財指定)。

f:id:tmja:20171109105922j:plain

先史時代からの遺物を展示したB室(考古資料)、1960年代まで使用されていた農具、漁具等のC室(民俗資料)があり、片廊下の天井付近には源為朝を描いた為朝凧が飾られています。この凧の考案も上述の近藤富蔵。尾のない細長い凧で上部に音を出す仕掛けが付いているのが特徴。あげるのが難しい凧だとか。源為朝は頼朝の叔父にあたり、保元の乱に敗れ伊豆大島に流された数々の伝説の残る武将です。

f:id:tmja:20171109105927j:plain

D室・流人コーナーI。関ヶ原の合戦にての西軍副大将、岡山城主・宇喜多秀家が1606年に流されたのが記録上での八丈島への流罪事始めとはじまります。もし東軍が負けていた場合は、ここに並ぶ資料の多くの名前が宇喜多秀家でなく、徳川家康となっていたのかもしれないと思いました。 

f:id:tmja:20171109105931j:plain

八丈島の植生物を展示したE室、生活用具のF室、椿油搾り道具のG室、黄八丈、養蚕、島酒等を展示したH室と続き、八丈島の歴史や民俗が学べるようになっています。今年訪れた三宅島郷土資料館で興味を持った流人をもう少し追い掛けてみたく、今回は流人コーナーに時間割くことにしてみました。

f:id:tmja:20171109105943j:plain

八丈島言葉カルタにも「ずにんの のこしとーものが しまには しっかり あろわ(流人が残したものが島には沢山あるよ)」と流人を肯定的に捉えたものがありました。ラ行がダ行音となる八丈方言の特徴で、ルニンがヅニンとなっています。

f:id:tmja:20171109105934j:plain

流人コーナーIIのI室は写真で見る八丈流刑史。火山島で耕作地の限られた絶海の孤島・八丈島は五穀、野穀が常に不足しており、当時は飢饉の島として知られていました。当人渡世勝手次第として自活生活を強いられた流人は餓死する者も多く、平時から食料生産の手段を持たない者には厳しい場所でした。

ただし、島の北側を流れる黒潮によって本土と分離された八丈島にとっては、流人は得がたい情報源でもあり、文化の伝授者でもあった為に厚遇を得た者達もいたそうです。医療、養蚕、金融、いも焼酎、教育、農業とその影響は多方面に渡っています。

f:id:tmja:20171115155129j:plain

流罪は死刑次ぐ刑罰。これら流罪を受けた者は皆、日本橋小伝馬町にあった牢屋敷にまず収容され、春と秋に出る船出待つことになったそうです。上の写真は今年前半に訪れた時のもので、牢獄跡地の十思公園南の大安楽寺の境内にある碑。

f:id:tmja:20171115155111j:plain

その小伝馬町牢屋敷のジオラマです。ここにあった牢内の習慣という解説の欄にて、「牢内の人員が増えてくると作造りと言われる殺人が行われた。主に規律を乱す者、元岡っ引き/目明し、いびきの煩い者、牢外からの差し入れの少ない者が標的にされ、病気で死にました届ければ、咎めが来ることもなかった」と言うくだりに戦慄を覚えたのでした。

f:id:tmja:20171116174534p:plain

出典: 明治大学博物館

永大橋から出港する流人船。江戸を出てからは浦賀の船番所で検閲を受け、相州沖、豆州浦々を渡り、風待ちをして七島へ向かったようです。流罪とされた人々の罪で最も多かったのは博打、その他に喧嘩、放火、女犯僧等。

f:id:tmja:20171115184438p:plain

八丈島の北側には黒潮が流れており、房総沖で千島列島方面から来る親潮ぶつかり合い、太平洋へと向きを変えてしまいます。従って潮流を利用して本土へ向かう事はできません。八丈島に流刑となったのは記録上で1,865人。そのなかでも「島抜け」をしようとする者もあるものも、「黒瀬川」と当時呼ばれた黒潮が小舟で越すには難関となっていました。

今年の6月あたりからニュースとなっていました「黒潮の大蛇行」。本来であれば四国、本州沖に添うかたちで流れる黒潮が、紀伊半島沖で南に大きく蛇行するように流れる現象です。これが起きると、八丈島の北側を流れる黒潮が一時的に南側へと変化する事もあるのです。過去に成功した島抜けは、この時期を狙って敢行されたのではないかとの話しもあるそうです。

上の図は今年10月31日のもので、黒潮が紀伊半島沖で離岸して蛇行しているのが見えます。現在(2017年)発生中の黒潮大蛇行でも、12月頃に流路が八丈島の南側へと変わる予想が出ています。

f:id:tmja:20171109105951j:plain

廊下でふと目にした写真。最初は「なんでオバケの写真がこんなところに…」と思いましたが、

f:id:tmja:20171109105938j:plain

すぐそばには椿油搾り器具が展示されている部屋があったので、これは長い髪の女性が椿油で手入れをしている写真だったのかと独りで納得していました。

f:id:tmja:20171109105954j:plain

普段は記念スタンプには興味を持たない方ですが、この建物に閉館前に再度来る事もないかと思い、記念に押してみました。建物の本来の正面の絵柄となっていました。

f:id:tmja:20171109110002j:plain

傘を持参していなかったので、本来の正面玄関を小雨に降られながらも確認。大きな蘇鉄の木も茂り、少し前に訪れた奄美大島に似ている気がします。

f:id:tmja:20171109105958j:plain

東京都八丈支庁と掲げられた正面入口。足元には赤珊瑚が散りばめられるかのように埋め込まれていました。歴史民俗資料館を見学中に雨がザーと本降りになってきてしまいました。資料館の方曰く、島の天気は概ねこんなものだと言われ、八丈富士登山は諦めて温泉巡りにでも切り替えようかと悩んでしまいました。