愛宕神社・出世の石段

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神田きらりさんの講談「出世の春駒」を正月に生で聞く機会があったので、宿泊していたプリンス・パークタワーからも近い舞台・芝~虎ノ門を散歩してみました。

この話しは3代将軍家光が父・秀忠の菩提を弔うために、命日の1月28日に芝・増上寺を訪れた帰り、愛宕山の急峻な石段を馬で駆け上がり梅を取って来いという無理な命令に対し、讃岐丸亀藩家臣・曲垣平九朗が見事成功し日本一の馬術名人との名声を得て出世したという内容です。

上の写真は芝増上寺の三解脱門から愛宕山方面(後方の高層ビルの谷間にある)を写してみました。残念ながら江戸一の高さを誇った愛宕山は見えません。

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大戦中に焼失してしまい拝殿と本殿は無くなってしまいましたが、プリンス・パークタワー側に二大将軍秀忠の大徳院霊廟惣門が現在も建っています。三代将軍・家光を此処を出発したのは午後3時ぐらいではないかと推測し(講談のなかで、江戸城に戻るまでに日が暮れてしまう云々がある)、3時過ぎに自分も歩き始めてみました。

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上の写真は増上寺のものです。

ちなみに、戦火で焼け落ちてしまった徳川家の霊廟群ですが、明治期に英国王室へ寄贈された1/10スケールの精巧なミニチュアが増上寺に長期貸与されており、実物が展示されているのが見ることが現在できます。

当時の技術の粋を集めた建造さえただけに見応えがあり、実物が残っていたら東京観光には浅草ではなく芝が訪問地リストの上部を占めことになっていたかもしれません。

www.zojoji.or.jp

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将軍がこの日に通ったのではないかと自分が推測したルートを赤線で示してみました。増上寺を出発して、御成門をくぐり左折、青松寺を右折して愛宕神社前を通り虎ノ門(江戸城)へ。増上寺からプリンスホテル東京を越えて、愛宕山がどこからか見えないかと探し続けていたものの、やっと見えたのは青松寺を過ぎてからでした。

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愛宕山トンネル付近まで近づいて見えてきた愛宕山。増上寺から戻っている途中に、肌を切るような冷たい北風にのった梅香が将軍まで届いたのはこのあたりかと思いながら見上げてみます。愛宕山は23区内で最も高い山で26mあります。総本宮にあたる京都の愛宕神社もそうですが、街の最も高い山にあり防火・火伏の霊験があると言われています。

生まれながらにしての将軍・家光は当時30歳ほど、前後に大勢の御供の大名を従えながら江戸城へ戻っていました。数百の僧にて盛大に催された大法要の後だったこともあり、色々思うこともあったのではと想像しました。天下を獲った祖父、その後を継いだ父。実際の戦場に赴いたことのない家光は武家の棟梁として足りないと感じるところがあったのではないでしょうか?

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「東都芝愛宕山遠望品川海」の錦絵です。家康によって建てられた愛宕神社は、江戸一の高さを誇る展望地として当時も人気があったようで、まるで垂直かとも見える頂上へ続く階段がこの錦絵にも描かれています。頂上からは東京湾を眺められ、茶屋がひしめいていたように見えます。 

汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我(わが)汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として

現在でこそ周囲を高層ビルに囲まれてしまっていますが、明治にできた鐵道唱歌の一番にも出てくる江戸・東京のランドマークでした。

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角度が40度(%)もある86段の石段は現在もあり、実物を見上げてみるとかなりの急角度です。普通の人間は30度ぐらいから怖さを感じると言われているので、40度は更に厳しい傾斜具合です。自分も登る時はいつも手すりを掴みながら登っています。

最近は虎ノ門ヒルズ等の開業でハイヒールで登る人も見るようになり、踏み外すのではないかとハラハラしたりしてしまいます。 15cmぐらいあるハイヒールの方が登られているのを見た時には流石に吃驚しました。

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この急峻な石段を「誰ぞ、馬に乗って山上の梅を取って参れ」と家臣に将軍が命じました。勿論、梅が欲しかった訳ではなく、武家の棟梁として家光は祖父・家康にも勝るとも劣らないのだと武勇を示したかったのだと思います。下を向くばかりの家臣に対して「誰かいないのか?、徳川は三代にして武は地に落ちたるか?」と怒り爆発させる家光。

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聞いた講談のくだりで家光の命に従い数名の腕に覚えのある馬術指南が挑戦するも、いずれも石段の7割程上がったのところで馬が止まって動かなってしまい、後ろを振り返ると怖くなり、鞭を入れた勢いで人馬共に落ちてしまう場面がありました。

あの階段(の7合目)に踊り場のようなところはあったかな?という疑問を解消したかったので今回訪問してた理由です。見ると踊り場はなく、石段が途切れもなく続いていました。ここからガラガラと落ちた場合は本当に命が危ない気がします。上の写真は60段目(86x0.7)から見下ろしてみました。

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4人目の挑戦者・曲垣平九郎の馬も他の者と同じく7合目で馬が止まってしまうも、緊張が極限に達した馬に塩を舐めさせ、馬の汗をぬぐい元気を取り戻させ、そして、馬に上だけを見させるように巧に手綱を取り登頂を果たしました。階段下で見ていた人々からは、平九郎の姿が見えなくなった時には大きな歓声があがったとか。

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現在も残る「将軍梅」。曲垣平九郎、まず本堂に向かい祈りを捧げた後に、境内に咲き誇る源平の梅を紅白1本づつ手折り、関東一の若武者・梶原景季のように折り取った梅を襟元にさして、再度、あの断崖絶壁のような石段へ向かいました。

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江戸時代の錦絵から愛宕山頂上から見える景色は、この様なものだったでしょう。曲垣平九郎もこの景色を一瞬は視界に入ったのではないでしょうか? 勿論、将軍が行幸する日ですので、町民と思しき人々がこの地にいるはずもありませんが、江戸の街並みとその向こうに広がる東京湾はあったはずです。

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「登るに易く、降りるに難し」。このような名人に怪我などあってはならぬと、家光公自らが扇を開き「平九郎、女坂から降りよ、女坂から降りよ」と合図をするも、階段上にいた曲垣平九郎は将軍様が早く降りて来るように請求されているかのように聞こえ、「南無愛宕権現、南無愛宕大権現勝軍地蔵尊」と唱えながら、この急坂を上りと同じくジグザグに手綱を取り見事降り切り、山上よりの梅を将軍・家光公に献上いたしました。

ことのほかお喜びになった家光公は「日本一の名人」との称号と三つ葉葵の御門の脇差一振を授け、曲垣平九郎の名は一夜にして全国に轟いたと言います。

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境内には曲垣平九郎の「顔出し」が置かれていました。話しのなかでは、近くの農家より借りた左足を怪我した痩せ馬でしたが、立派な白馬の姿となっています。

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社殿内にも同じ構図の絵画が飾られておりました。三木老こと三木啓次郎とパナソニックの創業者・松下幸之助の連名にて奉納されたものです。余りのビックネームに驚きです。浅草の雷門の銘板にも両名の名前が連なって書かれているのは有名な話しですが、ここで見られるとは思ってもいませんでした。

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愛宕山の女坂も上から眺めるとかなり急です。109段、傾斜20度と曲垣平九郎が登った男坂と比べると緩やかなもの、こちらも怖さを感じる程。所々に踊り場のような段があり、幾分かはこちらの方が安心感があります。

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登り口まで降りました。左手は男坂、右手は降りてきたばかりの女坂です。「東都芝愛宕山遠望品川海」もよく見ると女坂が描かれていました。

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虎ノ門ヒルズの建つ愛宕一丁目交差点より江戸城(皇居)方面。400年近く前にも、この道を家光は満足して、家臣達も将軍の怒りから解放され安心して帰路に着いたのでしょう。新虎通りの開発が進み、オリンピック時期には多くの人が訪れる地区に発展しそうな愛宕エリアです。

神田きらりさんの講談がYou Tubeにありましたのでリンクをしてみます。リンク先がなくなってしまったので消しました。You Tube等で「寛永三馬術」等で検索をすると出てくるのではないかと思います。


<2017年2月7日追記>

愛宕神社の境内にある茶屋風レストランにお邪魔してみました。

www.runway.blue