河口慧海も学んだ寺子屋・清学院

f:id:tmja:20161212213533j:plain

大阪府・堺市の三大偉人を上げろと言われると、千利休、与謝野晶子までは万人の一致を得られる選択肢だと思うのですが、3人目はとなると意見がよく割れます。日本人として初めてチベットの都ラサの地を踏んだ河口慧海を自分としては推したいと思っていますが妻の同意すら得られないでいます。

川口慧海は堺山伏町の樽屋の子で、狭い日本では収まりきらず、ヒマラヤ山脈を越え2度の入蔵を果たした元気なお坊さんでした。最初のヒマラヤ越えはネパール西北部のドルポからとなかなか壮絶なルートで明治33年にヒマラヤ超えチベットに入蔵しました。帰国後に彼の記した西蔵旅行記は当時大評判で、良くも悪くも日本人のチベット観の根底を作るに至るほどです。

その彼の出身地の近く、南海本線七道駅前にはヒマラヤを越えていく姿の河口慧海像が現在立っています。2匹のヤギを連れている像ですが、建立後に発見された資料では、連れていたのは羊であったと判明したとか・・。

f:id:tmja:20161212213543j:plain

川口慧海が幼少の時に学び、仏教に触れた寺子屋・清学院見学にやって来ました。河口慧海は自分にとってはお茶目なスーパーマンだったので、自分の生まれ育った東京・世田谷で晩年を過ごしていたとか、彼が学んだ寺子屋が現存するなどは考えたことはなく、この場所を知ったのも実は今年に入ってからでした。

堺は夏の陣、そして太平洋戦争末期の爆撃で大半が焼けてしまったものの、江戸時代の町割りや当時を偲べる建物が結構残っているのも、今回実際に訪れて初めて知りました。

f:id:tmja:20161212213542j:plain

清学堂は江戸時代に多かったと言われる、街中に院坊を構え周辺住民を檀家としていた修験道の寺院です。現在も街中でこのような建物が残っているのは珍しいはずです。

河口慧海も通った清学院(当時は清学堂)は明治に20箇所近く旧環濠地区にあった寺子屋のひとつでした。堺は商都であっただけあり教育に力を入れる土壌があったとか。ただ、現在は全国平均に達しないぐらいの位置に低下してしまっていますが・・。

f:id:tmja:20161212213541j:plain

玄関口に立つと女性の楽しそうな話し声が建物内部より聞こえてきました。自分より先に香港からの旅行者がボランティアさんの説明を受けているようでした。

f:id:tmja:20161212213539j:plain

奥座敷に寺子屋の様子が再現されていました。寺子屋という言葉は歴史の教科書でよく見るものも、実物を見た事がないと思っていたら単純なことを忘れているのに気が付きました。寺子屋は市井のお寺さん等が場を提供していて、読み書きソロバンの時間が終われば机を片付けるだけなので、寺子屋だけという建物はないと・・。

f:id:tmja:20161212213535j:plain

このお寺の不動堂です。既に使用はされなくなったものの護摩壇が本尊の不動明王の宝前に設けられていました。ガイドの方より、年に何度かだけ本尊の御開帳をしていると伺いました。ここでおこなわれていた護摩法要に触れ、幼少の河口慧海は何か感じるものがあったのではないかと考えました。

f:id:tmja:20161212213538j:plain

清学院の裏手は(旧)鉄砲梶屋敷があり、訪問日には金属を叩く音が響いていました。気になったので清学院のガイドさんに「あれは、刀鍛冶の作業音ですかね?」と尋ねたところ、YESともNOともハッキリしない返答で、1年に1度ぐらい公開をしている日があると教えて頂けました。

以前に岐阜県・関市で聞いた日本刀鍛錬の時に鉄を打つ音と似た音だったような気がしましたが、実際に隣家でどの様な作業をされていたのかはわからず・・。 

f:id:tmja:20161212213545j:plain

ガイドの方より、2筋向こうに河口慧海の生家の碑が建っていると教えて貰い、付近を3週程して見つけた碑がこちら。民家と民家の塀の間に挟まれるようにありました。

河口慧海の史跡として出張の合間に訪れてみましたが、寺子屋と街中にある山伏寺が見られたことの方が収穫があったと感じられました。特に不動堂は、火を焚いた炉に供物を捧げながら、祈祷している往時の姿が思い描けるようでした。